日本の航空技術力が再び開花

近年、日本の航空技術に関するニュースをよく目にするようになりました。

三菱重工業と宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、カナダの通信放送衛星を載せた主力ロケット「H2A」29号機を鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げ、衛星が予定の軌道に投入されたことを確認、打ち上げは成功となりました。

国産ロケットが商業衛星を宇宙へ運んだのは初めてで、日本の宇宙開発は新たな歴史を刻みました。

昨年秋には三菱重工傘下の三菱航空機が国産初の小型ジェット旅客機MRJ(三菱リージョナルジェット)の初飛行を成功。

戦後初の国産旅客機としては1973年に製造を終了した「YS-11」以来約40ぶり、ジェット機としては初の国産旅客機となり話題を呼んでいます。

また、アメリカに本拠地を置いてはいますがホンダジェットも日本の誇る航空機といえるでしょう。

ボーイング787の機体にも日本のメーカーが供給する部品などが採用され、町工場のドキュメンタリーなども放送されたりしています。

ここまでの技術力があるのであれば、もっと早く国内に航空機メーカーができてもよさそうなものですが、そもそもなぜ日本の航空産業が部品供給に留まり、航空機自体の開発に至らなかったのかご存じでしょうか?

戦前は日本国内でも多くの航空機が製造され、日本の航空機は世界でも有数の技術力を備えていると評価されていました。

第二次大戦当時の日本の航空産業は年間2万5千機の軍用機を生産する程の巨大な産業で、特に三菱重工業の「ゼロ戦」は開発当時は世界でも高い技術力を誇っていたといいます。

戦闘中の一瞬の判断に対応できるように操縦桿と各可動部分を結ぶワイヤーにわずかなゆるみを持たせることで、低速時と高速時において同じ操縦感覚を保てるよう工夫を凝らすなど、一時期はアメリカ軍が「ゼロと戦ってはならない」と指示を徹底させたというほどの戦闘力だったそうです。

戦後、欧米の航空研究者は日本の技術力の高さに衝撃を受けたといいます。

しかし、日本は第二次世界大戦に敗戦し、GHQ(連合国軍総司令部)が1945年11月に「航空禁止令」を発令。

これは、航空機の生産、研究、実験など全ての活動を禁止、戦前の航空機に関する資料は全て没収するというもので、模型飛行機さえも造らせないよう徹底されていました。

財閥解体も相まって、この時点で日本の航空産業は完全に分解されてしまったのです。

戦時中に航空産業を支えていた技術者の多くが、戦後、トヨタや日産、ホンダなどの自動車関連など分野に流れたことで他の産業に高い技術力が注入され、世界一といわれる産業にまで発展しました。

また、新幹線を代表する鉄道産業にも技術者が流れたことで、初代の新幹線の設計では、鉄道の高速化を可能とするために形状や力学、振動工学、電気技術など、幅広い最新の技術を投入・開発されたといわれており、日本の航空産業の高い技術力が転じて戦後の日本の屋台骨となったといえるでしょう。

終戦から70年、世界有数のレベルにありながら継続できず衰退した日本の航空産業は、今復活の兆しを見せています。

長い間、欧米に部品や素材を供給する役割を担ってきたため、完成品としての国際競争に遅れを取っているものの、基幹産業となるまで成長できるポテンシャルがあるともいえます。

日本が誇る高い技術力が、新しい分野で更に発展していくことが期待されます。

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