飛行機内の緊急時に口をつぐむ医師が多いのは日本では仕方がないこと

飛行機の中で急病人が発生し、CAが「お客様の中にお医者様はいませんか?」と呼びかける。ドラマや映画ではたまに目にすることがあるこんなシーンに実際に出くわした人はいるでしょうか?私は飛行機に乗るにしてもせいぜい4時間程度の路線にしか乗らないせいか、それともせいぜい年に往復3回程度ぐらいしか乗らないせいか、こうしたシーンに出くわしたことはありません。

医師がいるかどうかを呼びかけるのを「ドクターコール」と言うそうです。ある団体が医師に行ったアンケートによると、実際この「ドクターコール」があった場合、医師として「申し出る」と答えたのは42%程度でした。この結果を多いと見ますか?少ないと見ますか?

この結果を、仮に患者が死亡した場合に責任を負わされるリスクがあるからではないかと推測する向きもあるようです。

日本の民法では、医師が医師として緊急の対応をする場合は、患者本人に意識がある時は患者と、患者に意識がないときは依頼した航空会社と「契約」を結んで治療にあたることになり、この場合医療従事者としての注意義務が生じるので、例え軽度の過失であっても賠償責任があるといいます。死亡した場合の責任を回避したいと思うのは無理もないことでしょう。

善きサマリア人のたとえ

新約聖書に「善きサマリア人のたとえ」という部分があります。イエスは永遠の命を得るにはどうすべきかというユダヤ人の問に、ユダヤの立法にある「神を愛し、隣人を自分のように愛す」ことで得られると答えました。するとユダヤ人はその「隣人」とは誰かと聞いたので、イエスは例えば道端に強盗に遭って死にそうになっている人がいた場合に、助けずに通りすぎたユダヤ人の祭司や、イスラエルの民の一つであるレビ族と、その人を介抱したサマリア人だと誰が隣人かと訪ねました。

サマリア人というのはユダヤ人に迫害されていた人々ですが、問われたユダヤ人は憐れみを持ったサマリア人こそ隣人であると答えました。

この聖書の話にもとづき、憐れみをもったサマリア人のごとく窮地にある人を善意で助けた時には、仮にバッドエンドを迎えたとしても責任を問わないというのが「善きサマリア人の法」です。これは実際アメリカやカナダで施行されている法律です。

この法に依れば、飛行機という医療設備が無い状況で治療を行い、仮に患者が死亡したとしても、医師は責任は問われません。だからこそ、医師は緊急時に躊躇なく対応にあたることができます。

責任押し付け体質の日本

一方日本では、上記のように民法でも責任をとらされることになっており、また、日本人の民族性も、何か悪い結果になった場合は誰かに責任を押し付けあうというものです。

そんな状況にあって、それでも「申し出る」と答えた42%は、自らを省みない医師としての責任感がある立派な人たちです。責任押し付け体質の日本にあってはこの割合は多いといっていいでしょう。むしろ、残り48%のほうが正常です。お医者さんだって生活がかかっているわけで、善意で申し出た結果責任を問われたのではたまったものではありませんから。

宗教的倫理観の重要性

日本人は「宗教」というとなぜか「新興宗教」を連想する人が多いようです。また、日本人は世界一といっていいほど宗教への理解度が低い民族ですから、宗教の話になるとすぐに聖書や経典にあるフィクション的な部分をつついて荒唐無稽だなどと批判します。

しかし、宗教で重要なのは信仰心とともに教義から規定される倫理観なのです。コミュニティー内での規範を守るとともに、キリスト教の奉仕、仏教(日本仏教を除く)の慈悲の精神は他者への無償の思いやりを持つという倫理観も育てます。

一方日本の神道はケガレを払うことを旨とした宗教で、例えば「大祓」にはケガレを産む「やってはいけないこと」は説かれていても、奉仕や慈悲のようなするべきことは説かれていません。また仏教が説く慈悲も、日本人は観音菩薩の慈悲が自らにもたらされることを願うばかりで、他者へ慈悲を向けるということはありません。逆に責任はケガレとして避けようとします。

こうした宗教観を元にした民族性の違いが責任を避ける意識を生んでいるので、ここを根本的に変えない限り、ドクターコールに応じようという医師は増えないでしょう。

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