女性誌が生み出した日本人女性の旅行ブーム

1964年に自由化された日本国民の海外渡航により、一般の日本国民にも海外旅行の楽しみがもたらされました。1964年以降、1970年代にかけては、日本の旅行業が発展し、広まるとともに、少しずつ値段が下がって庶民にも手が届きやすくなっていった時期でもあります。

1970年代に、女性の旅行ブームを牽引したのが、1970年代初頭に相次いで刊行された『anan』『non-no』の二大女性誌でした。この二誌は、それまでどちらかというと主婦やある程度上の年齢の女性向けのいわゆる「婦人誌」しかなかった女性誌の中に、若年女性を対象として生まれた当時では革新的な雑誌でした。

『anan』『non-no』は特に20代前半の女性に支持され、二誌に影響されたファッションに身を包む女性などが「アンノン族」と呼ばれるなど、非常に大きな社会現象を生み出しました。

その『anan』『non-no』が流行ファッションの他に力を入れていたのが旅行です。両誌はこぞって山梨県の清里高原や岡山県の倉敷など、女性に訴求力を持つおしゃれ(に見える)な地域を紹介。それに乗せられた女性が旅行に行くという現象が生まれました。JTBの旅行雑誌『るるぶ』が創刊されたのもそうした流れの中でのことです。

さて、女性の国内旅行ブームが起き、また高度成長期により日本全体が豊かになっていく中で、海外旅行の需要も増えていきました。それに応じて、外国の観光局が日本人向けの観光地開発を行い、日本に事務所を設立して、それぞれの国へ観光誘致を行うようにもなっていきました。

1974年時点で30以上の国が観光局の出先機関を東京に設立。1974年だけを見ても、マレーシア、ベルギー、オーストリア、スペイン、ドイツなどの国が東京事務所を設置しています。

これらの国の中で最も有効に女性雑誌を活用して観光ピーアールをしたのがドイツです。ドイツは、ヨーロッパ各国の中では日本での観光ピーアール活動に出遅れました。また、フランスやイタリア、スペインなどきらびやかなイメージがある国と比べて、ドイツは地味でちょっと硬いイメージを持たれ、女性に敬遠されてもいました。

そこでドイツ観光局は、日本の雑誌記者を当時ヨーロッパの若者の観光地として人気があった「ロマンティック街道」へ招待しました。「ロマンティック街道」は、ドイツ南部のヴュルツブルクからイタリアのローマに向かって走る街道で、第二次世界大戦後にアメリカ軍の将校がバカンスを過ごしたために観光開発されてた地域です。

「ロマンティック街道」沿いの街々には、中世の町並みや荘厳な城や教会などが残されています。それを見た日本の記者たちは、日本人女性に受ける観光地であると確信したといいます。特に『non-no』は「ロマンティック街道」のカラー特集号を出すほどの力の入れようで、「アンノン族」を中心に広く知名度が上がるとともに日本人観光客も増えていきました。

この成功を受け、ドイツ観光局は、北ドイツのエリカの花咲き乱れる「エリカ街道」やグリム童話ゆかりの地を結んだ「メルヘン街道」、ドイツ南西部からチェコのプラハまでを結ぶ、中世から近世までの城や宮殿が並んでいる「古城街道」などもピーアールし、好評を博しました。

特に「メルヘン街道」は、いわゆる「聖地巡礼」のはしりともいえるもので、ハーメルンやブレーメンなど日本人にも馴染みがあるグリム童話の舞台が含まれています。

このような一定のテーマに絞った観光ピーアールの成功は日本の国内旅行のプロモーションにも応用されるようになり、例えばJRの「そうだ 京都、行こう。」などのようなキャンペーンも行われるようになりました。

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