LCC需要に湧く関空の今、そして未来とは

2011年2月10日、A&F・Aviation株式会社が設立されました。日本初のLCC=格安航空会社ピーチ・アビエーションの誕生です。その晴々しい空気が冷めやらぬ中、4日後のバレンタインデーにピーチ・アビエーションの拠点となる関西国際空港の第1ターミナル西側にある複合施設・エアロプラザを訪れた同社CEO・井上慎一氏は驚きのあまり声が出ませんでした。

その当時のエアロプラザは、まるで活気をなくしたシャッター街。エアロプラザの中心施設であるホテル日航関西空港も飲食店も人の賑わいがまったく感じられないと言うありさまだったのです。

そもそもエアロプラザでは、ピーチが入る数年前に目玉施設として開業時から入っていた「エアロプラザ・タカシマヤ」が経営難から閉店していたという経緯があります。ピーチはその「エアロプラザ・タカシマヤ」跡地をチェックイン施設として再利用しました。

ところが、それから3年以上たった2014年。ピーチ・アビエーション専用の第2ターミナルは早朝から利用客でにぎわい、エアロプラザの飲食店も活気を取り戻しています。2011年度に1386万人だった関西国際空港の利用者は、ピーチ就航以後、2013年度には1812万人に増大。飲食店等の商業事業も2011年度の売上261億円が、2013年度には330億円になりました。

CEOの井上氏はこの状況を見て「ピーチが関空の潜在需要を掘り起こした」と語ります。

1994年、アジアのハブ空港となるべく期待を担って関西国際空港は開港しました。大阪を中心とした関西地区の経済を活性化する起爆剤という役割も求められていましたが、安藤圭一社長によれば開港からの20年は苦難の連続だったと言います。

開港から数年間は関空の運営は順調でした。ところが2001年の9.11アメリカ同時多発テロ、2008年9月のリーマン・ブラザーズ破綻によるリーマン・ショックによる世界的な景気低迷などの影響で関空の利用者数はどんどん減っていきます。

2008年の大阪オリンピック招致も失敗して需要が低迷する中、1996年より着工していた第二期工事は、採算性に疑問を持たれつつも事業費を圧縮して進められ、2007年、4000mのB滑走路供用によりその年の9月1日、関空は完全24時間化されました。

ピーチ・アビエーションが関空を拠点に選んだ理由も完全24時間化にあります。成田も羽田も離着陸には時間制限があり、発着容量は飽和状態でした。それに対して関空は、24時間化のために発着容量に余裕がありました。また、LCCの国際線は台北やソウルなど4時間以内のフライト時間で行ける近距離飛行がメインです。それらの地域へは、関空は成田・羽田より1時間早く到着できます。

格安航空券を提供するために効率的な運行が必要なピーチにとって、そういった関空の条件は魅力的でした。

ピーチ・アビエーション開業前に国内でもマレーシアのエアアジアなどといったLCCが話題になっていました。ただ、それは格安で旅行ができるという肯定的な扱いと同時に、狭い機内とあらゆることに追加料金を取られるという否定的な扱いがあったのは事実で、サービス重視の日本での成功には疑問が持たれていました。

ところが蓋を開けてみると関空~那覇の片道4890円という、これまでの航空券ではおよそ考えられなかった料金が注目され、新たな旅客の需要を掘り起こしたのです。

2014年現在、ピーチを筆頭にLCCの国際線はアジア各方面への便を中心として1週間に約170便。関空の安藤社長はピーチ専用の第2ターミナルこそ関空の中心であるとまで言っています。関空には更に他のLCCのために第3ターミナルが整備される予定です。

とはいえ、好調のLCCにも恒常的になっている原油高やパイロット不足といった弱点があります。パイロットの病気等が相次いだため、大量の欠航が出たと言うニュースも記憶に新しいと思います。

関西学院大経済学部教授で、LCCに関する著書もある野村宗訓氏は、これからはLCCにばかり依存せず、関空と国内の地方都市を結ぶ地域エアラインを育成して、日本国内でのハブ空港となることが重要だと指摘しています。

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